気仙沼のふかひれ屋さん 気仙沼のふかひれ屋さん
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14年めの3.11

忌まわしい記憶がいやがうえにも呼び起こされる毎年のこの日。過去のブログでは、自身の被災した画像などは思うところがあって載せてこなかった。ある年の3.11は”花”だけだったり、またある年は”星空”だったり。いつまでも被害者ぶりたくない気持ちがあった一方で、そうかと思えば空しく切ない心持ちを訴えている自分もいた。頭の中は糸が絡み合うような、、、シュールな思いを誤解無く言語化するのはとても難しい。様々な葛藤を抱えつつ、あの3.11震災から14年めの今年は心情の区切りをつける意味も含めて、事のてん末を記録に留めておきたい。。─外壁がえんじ色、ガレキに埋もれた建物は小生の実家で当時は母がひとりで住んでいた。写したのは津波の水が引いてから一週間後くらい。良い天候が続き、ガレキもすっかり乾いた状態になったので家に行ってみた。あたり一面に腐敗臭が漂う中、ガレキの山を乗り越え中に入ってみると腐ったマグロやサンマが部屋の中まで散乱、足の踏み場が無いほどであった。2km先の湾岸地域には大きな冷凍魚庫がいくつもあったが、そこからおびただしい冷凍魚が流れ出たのだ。

話は前後するが、震災当時の様子について。。強い揺れが治まった直後、ひとまず母の無事を確認し一旦、自宅へ戻った。するとヨメちゃんが青ざめた様子で100mほど先の川(気仙沼大川)を指さし、よく見ろと言う。目を凝らすと今にも土手を超えそうな黒い濁流が、しぶきを上げながら逆流している。「あれって土手からあふれてこないかなぁ」、、「いや~まさか、それは無いよ。」何の根拠もなく呑気な小生をよそに固まっているヨメちゃんの手は震えていた。...「ギャー!!!!!!、やっぱりきたきたー!」川土手を超えたドス黒い水があっという間に二人の足もとに迫ってきた。ヨメちゃんは自宅の外階段へ、小生は水に追いかけられながら要介護の母がいる実家へ夢中で走った。50m先の実家に着くや否や、川から90度違う、今度は内湾の方向からも勢いよく波が押し寄せてきた。下半身は水に浸かるも、すんでのところで流されずに命拾い。家の中では今にも水に浸かりそうになっている母を何とか布団のある押し入れ上段に押し込み急場をしのいだ。窓の外を見渡すと近所の家々が目の前で土煙を上げて沈み、流されていく。その凄まじい光景は今でも鮮明に焼き付いているが、不思議なことに音の記憶は抜けている、無音の世界と言うか。で、直にこの家も粉々になるかもしれないと想像したら、とてつもない恐怖に駆られた。一階は潰れたものの運よく残った2階部分が船のようにユラユラ流れ30mほど行った白い家にぶつかったところで止まった。家は辛(かろ)うじて浮いてはいるものの波で揺れると畳を押し上げ、水が噴き出したりしていた。夜になると今度は別の恐怖に襲われた。遠くに火の手が上がっているのが見え始め、次第に火の帯(おび)は左右方向にドンドン広がっていった。おびただしい火のそれは、石油コンビナートのタンク群が湾内に流れ込み、漏れ出た大量の重油に引火したものであった。実家の家、あたり一面も油の臭いが漂っていたので、火がこちらまで引火してくるのではないかと気が気でなく、そんな事態になったら絶対逃げられない。死ぬかもしれない...。と、心底血の気が引く思いでいた。布団を抱えて屋根によじ登り寒空の中、火の手の様子が心配で夜通し見守った。静寂の中、断続的にあちらこちらから微かに声がこだましていた。「誰かー...」とか「お父さーん...」とか「助けてー...」、「お.ぉ.ぃ...」、深夜になるに伴い、次第に声はしなくなった。一切の音も光も無い異様な世界は、まさに映画タイタニックのラストシーンをも彷彿させる。どのくらい時間が経ったのだろうか、一体何時なのかまったくわからない中、バリバリバリと凄まじいプロペラ音を轟(とどろ)かせながらヘリコプターがやって来た。小生は羽織っていた布団を剥いで立ち上がり懸命に手を振った。サーチライトは小生を照らしたと思ったら無情にもそのまま飛び去ってしまった。。だが、まずは幸いにも火の手が向かってくること無く朝方を迎えられたことに安堵した。緊張がほぐれたのか無性に喉のが渇きを覚えるも、そこらには飲食物などあるはずもない。ぶつかった先向かいの家に目をやると屋根の雨どいからダラダラ雪解けの水が落ちている様子が見える。偶然家に流れ込んだ板を張って恐る恐る渡った。斜めになったトタン張りの足元は濡れていて気をつけないと滑り落ちそうだ。懸命に踏ん張り雨どいの下に手を伸ばし、したたり落ちてくる雨水を両手に溜めて夢中ですすった。母と共に、もうろうとしていると「誰かいますかーー!!!!!!!」自衛隊の方が数名で救助に来てくれた。「母ちゃん...助かったぞ。」普段は感情の薄い小生だが、この時ばかりは張り詰めていた糸が切れて涙した。自衛隊の方は母を背中におぶって「ひとまず(公立)病院へ搬送しますので。」と。その後も色々あって小生が家族と再会できたのは3日めの夜になってから。もしやと案じていたヨメちゃんの方も大分、危ない思いをした様だが運よく助かっていた。彼女はいち早く再会していた子供達に告げていた、「父ちゃんはたぶん亡くなったと思う....」。。そんな小生が突然に現れたので当時、中学生の三男は驚いて泣き伏せ、嗚咽した。家族でロウソクが灯る中、手を握り合って涙したあの夜から14年

自宅と仕事場は見ての通り。津波の後、後日には南気仙沼地域の一帯、8,000坪弱(東京ドーム/15,000坪)が焼け野原に。火災前、すでに地震津波でほとんどの家屋はガレキと化していたので、燃えるに任せて消火活動は、なされなかったと記憶している。奥の方、運よく火災を免れた家は数件あったが、後の土地区画整理事業によってすべては解体となった。

長年、苦楽を共にしてきた相棒はどこをどう流されてきたのか、ご覧の通り無残な姿でご対面。車体に刻まれた”有限会社マリンジャパネット”は震災前までの社名。なんだか”ジャパネットたかた”のパクリの様だが、実は人知れず名を挙げたのは、ウチの方がわずかに時期が速い。設立時には夢膨らませ大志を持って名付けたものの次第に身の丈に合わない社名に気恥ずかしさが芽生え、震災を契機に現在の社名である”鼎陽”に変えた。それにしても”完了OK”の意味はハテ?

実はこの時、携帯、財布など貴重品一式を詰めたポーチがダッシュボードに入ったままになっている。無事にあることを祈って潜入するも、体がムチムチで悪戦苦闘。ナニィーッ!...ダッシュボードは開いていてポーチが無くなっている!、、、と、思ったら助手席の足元奥に挟まっていた~~。無事回収できたもののポーチはドロドロの水でダブダブ、、んんっ、クッサ(涙目)。生魚が腐って石油とミックスしたような何とも言えない、鼻がひん曲がりそうな悪臭には参った。携帯は案の定、オシャカになったが代理店の計らいによって(震災特例とのこと)新品機をいただけ感謝の至り。

その年の9月頃か、自宅の跡地にて感慨にふける小生。焦土と化していた一帯のガレキも取り除かれすっきり。あの焼け野原がウソのようだ。塩水に浸かった敷地の土も何のその。雑草たちの生い茂る早いこと早いこと。ちなみに後方の家屋は一見きれいに見えるが皆、2階まで浸水して悪臭を放っている。やはりこれらも区画事業で後にすべて解体。さて、余談ながら、この時の体重は85kgをゆうに超える、やや肥満体。数年後に大病を患ったおかげもあって、その後は現在もキープの65kg。その差、実に20kgの減。スーパーで10kgの米をふたつ持とうにも「んぐっ##」しんど。こんなのが体にあったとは...。